アレの多様性

kr22006-09-20

会社の中の研究の中間報告を終える。
このシステムはとことん変わっていて、特に専門家でもない若造に好き勝手にやりたい研究をさせるというものだがそういう風土が当たり前にあること自体、奇妙な会社だとつくづく思う。しかもやりっ放し。さらにそれは成果を求めるものではなくて、日々の業務の隙間を埋めるためのブレスト的位置づけだからなおさら奇妙だ。
もちろん終了後は幹部と飲み会。
会社内ではめずらしく、映画の話や本の話、または社会の話をまともに出来る幹部と話し込み、充実した時間を過ごす。
写真はaiina吹き抜け内観

盛岡

kr22006-09-17

弘前でAtoZをみて、肌寒いなか真っ暗な市庁舎・市民会館(前川国男設計)をみせていただく。
木村産業研究所(同設計)は外から眺めるだけ。

一人東北道を途中で降り盛岡。
駅前の再開発地区に完成したaiinaをみる。
地方都市の公共施設としてはとても新しいソフトの集積で、smtと似たようなビルディング・タイプ。利用者の数も多く建物内が生き生きとしていて非常に好感がもてる。総事業費は約245億円と多額だが、税金でこういう施設を整備していくのには賛成。全国的にこういった新しい公共施設が増えていくのではないか、と思いました。しかし一方で既存ストックの有効利用も課題で、盛岡ではaiinaの開館で城趾公園の一等地に位置する県立図書館(菊竹清訓設計)が廃館になっており、近代建築的価値とは別にひとつのストックとしてこれをどうするのか、気になる。


写真は岩手教育会館(菊竹清訓設計)。

仙台青森弘前

kr22006-09-16

連休は前泊で仙台入り、駅前にて飲み食べしゃべる。
修士設計がいきづまっているとの話をさかなに普段都市や社会に対して感じていることを乗せて言いたいことを言いたいだけしゃべることで互いの近況とか考えとかをすり合わせていく感じがひたすら楽しい。久しぶりなのにそんな感じはしない。


6時起床で、八木山で一人ピックアップして、北へ。
11時青森着。青森県立美術館がものすごい人出。


AomoriMuseumは、きっと適当な呼称がないから仕方なく美術館という用途名で呼ぶしかないような施設で、本当のところは公園の方が用途的には近いような雰囲気をもった建築だと思います。ハンチクとかレンガパネルなどの素材の話とか、みえの話とかいろいろな感じ方があってどれが当たってるとかそういうのはなくてそれぞれいろんな読み方ができるところがこの建築のよいところだと思いますが、使われかたとしては中で風呂敷でも広げてピクニックでもするのが本来の姿かな、と思いますので、そう考えると青木さんの決定ルールのオーバードライブによって出来上がるはらっぱという概念をみるにはとても成功していると思います。
順路がいらない美術館。

たのしみのバランス

kr22006-09-11

東京にはとても楽しくてわくわくするようなことが無尽蔵にあってずっと居ても飽きないような場所がどこかにあるという思いこみは誤りだったことに今更気づいて、意外と東京の都市はつまらないんだと思う所以は僕の都市感の初歩的な部分で決定的な間違いがあったからだと思って、都市は有機的な働きのなかでこそおもしろさを発揮するなかなかやっかいなものであるということが分かった。それはたとえるならウィークエンドのたのしさがウィークデイの辛さとの絶妙なバランスの中にあるところに似ていると思う。

例アウト

書類の文字組にこっている。

当初論文はInDesignで仕上げるはずが、あまりの機動性の悪さから開き直ってワードで書き上げたところが発端になっていて、とにかく書類の文字組から段組の割付、左右の余白のバランス、写真と文字の配列、キャプションテキストのサイズ、もちろんフォント・フォントの濃淡は言うに至らず。とにかくあらゆる方法で書類作成を楽しんでいる。

そういったところから当然本の見方も変わってきていて、青木淳の作品集第2弾の装丁はとても素敵だけれども第1弾と同じ表紙の文字組とフォントの選択とフォントの小ささ、それと表紙の色味がとても気になる。それが実は、青木建築特有の浮遊する違和感とか虚無感をschtuccoが表現したといわれるとひっかかるものがあるが納得するしかないし、もうそんな思慮され過ぎた仕事の質の高さにはお手上げである。

make new

kr22006-08-28

オリンピックが東京に傾きそうなのはラディカルな建築・都市ズキにはかなり痛手なはずで、僕の目の前で日々起きている社会の複雑さに対するストレスを更にメタレベルで感じるような変な二重の経験をしているみたいで割と不愉快です。

いろいろな都市に対する議論があるけど、市民としてはまったくの蚊帳の外だったりする状況があって、特に最近は都心の非居住地区が一度更地になったらどんなにすっきりするだろうとつくづく思います。丸の内近辺のビジネスディストリクトあたりの都市的なおもしろみを感じることができないのとパリのパレド・トーキョーあたりの河岸のスケールとかは僕のなかでは似ていて、あんまり大きいスケールの場所は徒歩民としてかなり苦手だし、それが都市とどんな有機的関係をもっているかについて想像をふくらませることができないくらい、自分の想像力が減退しているし、都市のもっている夢(幻想)も減っていると思う。